「生きづらい世の中になった」とは、昔も今もよく耳にする言葉です。しかし今の日本社会は、とりわけ”生きづらさ”を感じる人が増えているのではないでしょうか。
それは日本が”超建前社会”になっているからではないか、と私は考えます。本音と建前の使い分けは、日本人の特徴の1つでしたが、今は建前が強くなり過ぎたことで問題が起きています。
過剰な建前は、今の日本に分断をもたらした一方で、結果的に目覚める人たちを増やしたとも言えます。
今回は今の日本を”超建前社会”として見た時に、どのような問題と変化、そして棲み分けが起きているのかについて書きました。
本来の”建前”の役割と現在の”超建前社会”で起きていること
SNSによる相互監視社会は、建前しか言えない思考停止社会を促進させました。その結果、自分の周りで起きる不都合だけを見る人は、ひたすら愚痴を言うようになり、一方でそもそも社会がおかしいところに目が向いた人は、目覚める方向に進んだようにも思えます。
— よっしー(ありすママファミリー) (@ych369) June 16, 2024
「本音と建前」がセットになって語られる建前という言葉ですが、今の日本は”超建前社会”とも言える状況になっているように思われます。
まずはこれまで使われてきた建前の意味合いを押さえつつ、それが過剰に広がった”超建前社会”で起きていることについて述べておきたいと思います。
本来の”建前”の役割
「本音と建前」は、よく日本人論としても語られるほど、日本人の特徴とも言われます。
本音と建前の使い分けについて、まず本音は嘘偽りのない気持ちや意向のことで、時に本音はネガティブなものも含むため、誤解を生むような表現だったり、批判を受けるものだったりします。
たとえば取引先の人が苦手で付き合いたくない人だったとして、本音で「あなたのことが苦手で、もう会いたくありません」と言ってしまえば、会社としては取引先を1つ失ってしまうことになります。
そこで外向けのマイルドな表現として建前の出番です。取引先という仕事上の付き合いとして、個人的に苦手である本心は表には出さず、通りいっぺんのやり取りに終始するのが建前です。
建前は皆がある程度納得できるルールや価値観を共有することで成り立っています。取引先の例では、「お互い仕事上の付き合い」という価値観を共有することで、やり取りが成立します。
建前は、本音をぶちまけ合って起きる喧嘩=分断を抑止するための枠として機能しているとも言えるでしょう。
そして実際の運用においては、建前には柔軟さ・余白を残し、時に本音部分が顔を出しながら、コミュニケーションするのが日本的なやり方でした。
昔ながらの役所的な考え方として、「理由がなければお金は出さない」が建前ですが、「理由さえあればいかようにもお金が出せる」という本音が見え隠れしていました。
このようなやり方は、結局最後は権力のある人がごり押しすれば何でも通る、というハラスメント的文化を生んだ点が大いに問題ですが、緩やかな運用には気楽さのあるものではありました。
役所の感覚は、理由がなければお金を出さない、逆に言えば理由さえあればいかようにもお金を出せるというものです。前者の建前ばかりが世間一般に広がり、堅苦しい社会になりましたが、役所には後者の感覚が残っています。役所を擁護するつもりもないですが、もっと適当な世の中で良いとは思います。
— よっしー(ありすママファミリー) (@ych369) June 12, 2024
”超建前社会”で起きていること
現在の日本は、過剰な建前が社会全体に広がる”超建前社会”とも言える状態になったように感じられます。
これまでは本音と建前の間には、グレーなゾーンが暗黙のうちにあり、建前だけでは解決しない時には、その都度考えながら、柔軟に運用するという部分がありました。
しかし最近は柔軟な要素を一切許さない、建前だけが社会全体で正義かのようにみられるようになってしまいました。
たとえば男女差別や性的マイノリティなどの問題では、とにかく平等であること、マイノリティが尊重されるべきであること、が錦の御旗になり、他の意見を排除するようになっています。
それはまるで全員が一糸乱れず軍隊のように行動する社会であり、逸脱した行動を一切許さない社会と言えるでしょう。
こうした過剰な建前がはびこる”超建前社会”は、柔軟な思考を一切認めず、次第に皆が思考停止に陥っていくことになります。
また本来、分断を抑止するはずの建前は、かえって分断を生み出すものとなってしまうのです。なぜなら、常にリアルな社会で建前を求められることで、SNSなどネット上で本音が爆発する人が増えます。
そしてネットが愚痴の掃き溜めとなり、SNS上では常に喧嘩が日常茶飯事になってしまいました。
それが象徴的だったのがコロナ騒動です。誰に頼まれた訳でもなくマスク警察なる人たちが現れ、”マスクをつけるべき”という超建前が、思考停止を招き、分断を生み出しました。
さらにはSNSの発展により、建前が守られているかどうか、相互に監視し合う世界になってしまいました。
本音と建前の使い分けは、かつては寛容さのためだったものが、建前が暴走して本音を一切出せない”超建前社会”になったことで、今度は本音が暴走して分断が生じる窮屈な社会になってしまいました。
単に「生きづらい世の中になった」で良いのか?

しかし”超建前社会”になった今、「生きづらい世の中になった」と片付けてしまって良いのでしょうか?
”生きづらい”ことに、ただ無抵抗に巻き込まれてしまうと、ひたすら愚痴が飛び出し、分断だらけの世界に身を置くことになります。
コロナ騒動の時にも、ワクチン推奨と反ワクチンの争いが日々起きていましたが、この”超建前社会”が続き限り、ずっと誰かと争い続けなければなりません。
しかし俯瞰して今起こっていることを眺めてみると、そもそもなぜ”超建前社会”になったのか、作為的なものはなかったのか?という視点になります。
たとえばマイノリティ問題やBlack Lives Matterなど、大義名分のある運動なども、調べていくとどうも胡散臭い部分が出てきます。
そもそも差別を解消しようという運動自体、差別を作り出すところから、社会的に仕組まれているのではないか、という話があちこちにあります。
実は強烈な建前を作り出し、それぞれの正義のもとに争わせ、分断を生み出すことがセットで仕組まれていたのではないか、ということです。
こうした俯瞰の視点が「目覚める」という現象であり、社会の違和感から端を発して、社会の仕組みのおかしさに気付く人が増えてきました。
いまだに分断による”生きづらい”世界が本体だと思っている人たちは、そうした俯瞰の視点を”陰謀論”だと切り捨てますが、そもそも生きづらい世界が幻想に過ぎないのです。
あまりに建前が強くなり過ぎた社会は、コロナ騒動のようなヘンテコな世の中になり、目覚める人を増やしたという良い点もあったように思います。
そして目覚めた人たちの世界と分断の世界では、波動による棲み分けが起きて、全く別の世界を見るようになりました。
しかし目覚めた人たちの波動が高まることで、集合意識の観点からも世界が変わっていくはずです。分断を作り出すおかしな世界から脱するには、まずは今の世界を俯瞰することが大切です。
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