新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、いまだ多くのライブ・コンサートの延期・中止が続いています。
このような状況の中で、サザンオールスターズやSuchmosなど、いよいよチケットを購入して見る本格的な「無観客配信ライブ」を行うアーティストが増えてきました。
今のような状況が続けば、ますます配信ライブが増えるかもしれません。しかし配信ライブはどこまで観客ありのライブに迫ることが可能なのでしょうか?
今回は心理的な側面も含め、その可能性と限界について考えてみたいと思います。そして配信ライブから見える、コロナ禍の本質的な問題にも迫っていきます。
無観客・配信ライブの可能性と限界を掘り下げて考えてみた
観客の入っているこれまでのライブと、無観客・配信ライブの何が違うのか、掘り下げて考えてみました。できるだけ素朴なところから、まずは思い浮かべてみましょう。
「見る・聴く」ことに関する問題
※初の無観客配信ライブが決定したSuchmos
すぐに思いつくのは、「ライブを直接目で見る・耳で聴くことができない」点です。
ライブ会場にいれば、自分の見たい人を自由に選んで見られます。カメラでの映像は、どうしても自分が観たいポイントを選べません。
「耳で聴く」ことについては、1つは音質の問題です。配信になると、どうしても聴き手の音響設備によって音質が左右されてしまいます。
また「聴く」行為は、実は耳以外を含めた体全体で聴いています。しかし自宅で配信ライブを視聴する限り、大音量で出力するわけにはいかないため、音を体感することが難しくなります。
しかし、配信ライブは悪いことばかりでもありません。
ライブ会場では「人の頭でよく見えない」ことが起こりますが、映像ならそんな心配は無用です。むしろ落ち着いて綺麗な映像で見ることができます。
音に関しても、ライブ会場では爆音のため、場所によっては聴き取りにくいことがよくあります。それも配信であれば、クリアな音で快適に聴くことができます。
このように、ライブにおける映像や音声など、「情報を伝える」側面は、配信ライブでも十分に可能ではないかと思います。
一方で、見たいところを見る・音を体全体で感じるなど、ライブに自ら参加する主体性の側面は失われ、ライブは「情報を受信するもの」に近くなってしまいます。
いかにライブに主体的に参加している感覚になれるか、については今後配信ライブの進歩が期待されるところです。
以上は技術的な進歩によってある程度解決できそうな問題でしたが、ここからはライブにまつわる、より心理的な問題にアプローチしていきます。
ライブにおけるハレとケの問題
「ハレとケ」という言葉をご存知でしょうか?
文化人類学などで使われる言葉で、「ハレ」はお祭りなどの非日常のこと、「ケ」は日常のことを指します。
ライブを見る側にとっては、まさにライブは「ハレ」にあたるものです。
ここで注目したいのは、ライブそのものだけでなく、ライブ会場に行き、会場の雰囲気を味わうことも「ハレ」の重要な一部なのではないか、という点です。
ライブに向かう服装・持ち物を準備して、会場に到着すると、日常生活モードから、ライブを見るモードに気持ちが切り替わります。
しかし自宅で配信ライブを見る際には、この「ケ」の状態から「ハレ」の状態に移行することが難しくなります。
自宅にいれば、自宅でやりたいこともたくさん頭をよぎります。いくら工夫をしても、ライブ会場に行くのと同じ気持ちになることには難しさがあります。
特に家族やお子さんのいる家庭では、思うように楽しめないかもしれませんし、ライブの途中でお子さんの相手をしなければならない場面も出てきます。
ライブを見る心理状態へのスイッチが、ライブ会場に行くことでもあるため、自宅にいながらいかにスイッチを切り替えられるか、という問題が出てくるでしょう。
アーティストと同じ空間で”息を交わす”こと
もう1点は心理的な側面に加え、身体の不思議やスピリチュアルな領域の話かもしれません。
ライブのもう1つ重要な側面は、アーティストと同じ空間で息を交わす、というコミュニケーションを行っている点だと考えています。
実はこの「息を交わす」という行為は、コミュニケーションにおいて非常に重要です。
呼吸に関しては、『「呼吸力」こそが人生最強の武器である』という書籍が出版されるなど、現在注目されています。
呼吸は自らの体や心の状態に影響を与えるものであり、またその人の体や心の状態は呼吸を伝わって相手に伝わっていきます。
競技に集中しているスポーツ選手の呼吸は深く、凛とした雰囲気を醸し出しています。
これと同様に、音楽を演奏するミュージシャンも、研ぎ澄まされた心の状態を、呼吸を通じて観客に伝えていると考えても不思議ではないでしょう。
このようなアーティストが本気で演奏する「現場」において、息を交わすことで観客は「パワーをもらった」と感じます。
そのパワーはアーティストだけが発するものではありません。観客同士も同じアーティストが好きだという「ポジティブな空気」をお互いに共有することで、パワーを与え合う空間になります。
このようなパワーを感じるには、どうしても同じ空間で息を交わす、ことが不可欠ではないでしょうか。
息を交わし、お互いの呼吸を感じることが、オンラインを通じてできない限り、ライブの視覚・聴覚といった「情報」以外を伝えることができないように思います。
まとめ
配信ライブにおける可能性と限界について考えてきました。ここまでのまとめと、ライブだけに止まらないコロナ禍の影響についても述べたいと思います。
配信ライブについて
・限界:ライブに主体的に参加している感覚を持つこと、日常からライブに参加するための切り替えの難しさがある。同じ空間で息を交わせない。
配信ライブは、ライブの音や演奏している姿を見せるという点では十分ですが、いかに参加している臨場感を持てるようになるかが課題と言えるでしょう。
そして「息を交わす」ことは、現状では実際に同じ空間にいなければ実現できないことです。
配信ライブではそこに目をつぶるしかないとすれば、実際に集まって行うライブとの決定的な差が「息を交わす」ことにあるように思います。
コロナ禍で”息を交わす”ことができない問題の重要性
最後に、「息を交わす」行為については、ライブに限らず実はとても重要なものだと考えています。
コロナ禍により、人との距離をとる生活様式が推奨されていますが、息を交わす場面が減ったことによる弊害が多数出てくると思います。
自らの心、と書いて「息」です。息を交わすことは、情報伝達以外の心を伝え合う行為だと思っています。
心とは目に見えないものですが、お互いの顔を見て、息を交わしあう中で気持ちを読み取っています。
情報伝達だけであれば、電話やWeb会議を使えば事足りるのですが、心を伝え合うには直に合って呼吸を交わすことが大切になります。
息を交わすことについて科学的にはまだ解明されないことも多いのが現状です。
しかし、人と会う喜びや安心感、パワーをもらった感覚など、目に見えない何かが人の間でやり取りされていると考える方が自然ではないでしょうか。
徐々に人の移動が戻っているとは言え、「ハレ」の場となるようなライブやスポーツ観戦はいまだ人が集まれない状態が続いています。
こういったイベントがただの娯楽ではなく、良い呼吸を交わす場所として、なくてはならない空間であるという認識を持った社会になることを強く望んでいます。
そして、ライブなどのイベントを軽視する社会は、結果的に心を大切にしない社会へと突き進んでいくようで恐怖を感じます。
感染症に対する正しい知識を持ちつつ、心を大切にした新たな生活様式を目指していきたいですね。
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