日本人はなぜ社会に対して怒らないのか? – ”公僕”の考え方と政治からの乖離状態

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心・心理学

日本人は社会に対して、あるいは政治に対して全然怒らないと言われます。度重なる増税政策や、裏金問題が取り沙汰されても、暴動が起きることは全くありません。

海外の人たちからすると不思議な光景にも見えるようです。ではなぜ日本人は社会に対して怒らないのでしょうか。

決して日本人が”馬鹿だから”とは言えない要因が、政治や国家に対する日本人的な考え方があるように思えます。

今回はなぜ日本人は社会に対して怒らないのか考えてみました。

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日本人はなぜ社会に対して怒らないのか?

日本人が社会に対して怒らない、と言った時には、おおよそ以下のような意味合いが含まれます。

  • 政治や社会的な出来事について、発信したりデモに参加したりする行動をしない。
  • 政治や社会的な出来事に、そもそも関心を寄せる人が少ない。

必ずしも”怒らない”訳ではなく、行動が伴わないので意味がない、と言うお話がまずあります。心の中では違和感を抱えている人も一定数いることでしょう。

また、そもそも政治的なことに関心を寄せないようにしている人も多いように思われます。”臭い物に蓋をする”かのように、見ないことにしているのです。

前者に比べ、関心も寄せないという後者は、さらに怒らない段階としては進んでしまっている感じがします。ではなぜそこまで”怒らない”ところに至ってしまったのでしょうか。

日本人にとって政治の世界は別世界

まずは日本人の”怒らない”現在地から押さえておきましょう。現代の日本人を見ていると、もはや政治の世界は別世界・異世界と言う感覚の人が多くなっているように見えます。

それは、分断とも棲み分けとも言えるぐらい、全く別の世界にいるような感覚です。顕著に表れていたのが、衆議院選挙の立候補者の演説の様子です。

朝の通勤時間帯、駅のコンコースで連日入れ替わり様々な政党の候補者が演説を行っている様子を見かけます。しかし誰一人として耳を傾ける人もいなければ、ビラをもらう人もいません。

通りを歩いている人にとっては、そこで演説をやっている事実すらなく、全く見えてもいないかのように素通りしていくのです。

当然と言えば当然で、朝の通勤時には誰しも職場に時間通り到着することだけが目的の人たちにとって、政治のことを考える余裕などなく、全く別の世界の話です。

この選挙演説が象徴的な光景であり、日本人の中では政治の世界と私たちの日常の世界は完全に分断されて、別世界になっているように感じます。

しかし別世界なのは表面的にそうであって、当然私たちの生活そのものに政治は関わってきます。そのことを誰しも知ってはいるはずなのです。

怒らなくなったのは公僕と言う考え方から?

ではなぜ日本人は社会や政治に怒らないのか、それは私たち市民の側と政治の側との関係性の問題が根底にはあるようです。

(かなり大ざっぱですが)欧米圏では市民と政治の関係は、一種の契約関係のようなものです。私たち市民が自由に生きるため、社会を動かす役割の一部を政治の世界に委託します。

そのため常に市民は権力者を監視し、一方で権力者は市民を支配(コントロール)しようという相互の関係性があります。

かつて倫理の授業などで出てきた社会契約説などが根底にあるのが欧米圏であると言って良いでしょう。契約ですので、当然オープンに話し合うことが前提となります。

また契約違反があれば話し合い、話し合いで解決しなければ争う(デモを起こす、訴える、さらには暴動になる)と言った関係性はごく自然なことです。

しかし日本人の感覚は、こうした契約の考え方が馴染まず、市民と政治の関係はもう少し曖昧なものになっているように感じます。

日本では公務員のことを公僕と言ったりします。それは社会のために奉仕する役割を取る人のことを言います。

そして、国のために働いてくれる人がいるので、市民はそれぞれの生活をしながら少しずつ公僕を支えていく、という役割分担のような考え方があります。

その根底には日本人に特有の”お互い様”と言う価値観があるように思えます。お互いに大変なので、あまり大っぴらに文句を言うことはどこか憚られるのかもしれません。

しかし社会契約説のような契約と言う厳密なものではないため、徐々に市民の側は「任せた」という無関心と依存に繋がり、政治家は好き放題やれる状況を作ってしまったとも言えます。

さらには契約関係の土壌がない日本に、形だけ欧米圏の政治的な価値観を持ち込んだ結果、「何も言わずに国のために奉仕しろ」というめちゃくちゃな価値観になってしまったようにも思えます。

先日、石破首相がケネディの演説で述べられた発言をして炎上をしたのも、日本人らしい価値観によるものと言えるでしょう。

そもそも石破氏がケネディ大統領の発言を日本の文脈で語ってしまったために、「何も言わずに税金をただ収めろ」という趣旨の発言になってしまいました。

アゴラ:石破首相のケネディ演説の引用で深まる懸念

石破首相のケネディ演説の引用で深まる懸念
石破首相の発言「国が何をしてくれるかを聞くな、一人一人が国のために何ができるかを聞けとケネディが言いましたね。それはそう...

このように、契約関係の意識が薄いところに、契約による委託料=税金をどんどん持っていかれることに文句は言うな、というめちゃくちゃが実際はまかり通っています。

しかし契約関係の意識が薄い日本人は、議論するとか訴えると言った手法への意識も薄いです。そのため政治の世界と、市民の世界を切り離すことで正気を保っている感じがします。

いわば日本人の現在は、政治の世界からの乖離状態とも言えるでしょう。さらには心理学における”解離”(自己意識がその場から離れてしまうこと)と言っても良いかもしれません。

まとめ – 日本人が怒る時は?

今回は社会や政治に対して怒らないのか、という理由を考えました。簡単にまとめれば、政治と民衆が契約関係にある欧米とは異なり、”お互い様”の曖昧な関係がもともと日本にはありました。

そこに欧米的な契約関係にもとづく政治の仕組みが入ったことで、全部政治に任せて「良いようにやってくれ」という態度に落ち着いてしまいました。

何もやってくれなかったとしても、契約違反だと怒ることはできないのが日本人と言うことです。

では日本人が怒る時が来るのでしょうか?いわゆる契約違反のような、理屈を積み上げた形で怒ることはあり得ないように思います。

しかし今の政治と市民の世界の、危うい棲み分けのバランスが崩れた時、日本人は途端に反旗を翻す可能性もあります。

その例がコロナ騒動でもありました。コロナ騒動はおかしな生活様式やワクチンと言う、私たちの生活の世界に直接入り込んでくるものでした。

政治の世界で勝手にやっていることには鈍感な日本人ですが、生活が直接脅かされることにはさすがに気付く人が現れます。

個人的には、「今日からお金が使えません」など、お金に関するとんでもないトラブルが起きると、さすがの日本人も行動を始めるのではないでしょうか。

なかなか「怒る」ということには馴染まない日本人ですが、棲み分けのバランスが崩れた時が見ものです。

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