このブログでは3次元世界に広がっている不思議な幻想を、”おとぎ話”と呼んでいます。幻想=おとぎ話とは、私たちが社会を形成する上で必要な、目に見えないものを可視化したツールのことです。
おとぎ話は自由に作れるために、支配者層はおとぎ話を巧みに利用して3次元世界を支配してきた歴史があります。
私たちの住む日本にある不思議なおとぎ話の世界を、「ニッポンおとぎ話」と題して書いています。
今回は「時間の使い方」をテーマに、いかに時間の使い方も支配されてきたのか、という内容で書いていきます。
時間の使い方に関する幻想 – なぜ朝に出社して夕方に帰るのか?
最初に「時間の使い方」に関するおかしな幻想について述べておきましょう。
私が思うのは、朝に出社して1日働く、と言う時間の使い方になぜ誰も疑問を持たないのか、ということです。
日本人は勤勉、と言われますが、1日ただ働くだけの生活が勤勉さなのでしょうか。日本人は時間の使い方も幻想に支配されています。
なぜ会社に行かなければいけないか?
「時間の使い方」について考える例として、一般的な会社勤めの人の時間の使い方を取り上げてみましょう。
会社勤めの人は、朝になると混雑した電車に乗り、あるいは渋滞した道を車で出社します。そしてお昼休憩を1時間ほど挟んで、夕方〜夜になるまで働いて、家に帰ります。
また労働時間がしっかり決まっていれば「ホワイト」と言われ、もっと過酷な労働時間で働かされる職場を「ブラック」と言ったりします。
しかしそもそも、こんな時間の使い方は誰が決めているのでしょう?
会社は労働基準法に則って就業時間や休憩時間を決めているだけです。ではなぜ会社に行って働かなければならないのでしょうか?
朝の時間帯、乗り換えのために駅の中を走っている人たちをよく見かけます。筆者はそういう人たちを見かけると「どこか楽しいところに行くんですか?」と問いかけたくなります。
きっと「忙しいんだからふざけたことを言うな」と言われそうですが、しかしそういう人たちに「ではなぜ仕事に行かないといけないのですか?」と問い詰めていくと、きっと答えは出ないはずです。
なぜなら朝から働くことは、その人自身が決めたもの(=自分軸)ではなく、幻想によって決められたもの(=他人軸)だからで、自分の中に答えはないのです。
このように、朝に出社して夕方まで働く、と言う時間の使い方そのものも幻想に過ぎず、幻想に従ってただ時間を過ごしている人がほとんどです。
そして前回のお金に関する記事で書いた通り、労働はお金のためであり、お金がないと生きられないという社会の幻想によるものです。
労働がそもそも幻想であれば、労働を軸にした時間の使い方も幻想に過ぎません。
※ニッポンおとぎ話 – No.1:日本人のお金にまつわる幻想と真実を知る
労働と余暇という幻想
もう1つ働くことに関連した不思議な幻想があります。それは労働と余暇、と言う時間の使い方です。
平日は働いて、土日は休日で余暇を楽しむ、というのがごく一般的な会社勤めの人の時間の使い方です。
余暇の時間を楽しみに、平日は心を無にして働いています。しかしたいてい1週間のうち5日は働いていますから、7分の5はつらい生活を送っていることになります。
そして待ちに待った余暇ですが、多くの場合は皆が土日に余暇を過ごします。そのため遊興施設などはどこも混雑し、それだけでもストレスフルな環境です。
しかし「せっかくの休日を楽しまなければ」と、余暇を楽しむことがまるで義務のようになってきます。果たして楽しみにしていた余暇は本当に楽しい時間なのでしょうか。
このような「労働と余暇」という時間の分け方も、余暇と言う自由時間を与えられているようでいて、労働と引き換えに与えられた、”条件付きの”自由時間です。
一方で本当の自由時間とは、条件などありません。ずっと何をしても良い時間が続くため、逆に言えば、何をして過ごすのか全て自分で決めることが大切になります。
幻想に支配された人々は、”自分で決める”ということができないので、余暇は「遊べ」と命令されて遊んでいるようなものです。そのため心が安らぐと言うことがありません。
このように私たちの生きる時間が、いかに労働と言う幻想に支配されているか、が分かります。本来時間の使い方は自由であり、その時したいことをして生きていれば良いはずです。
そうした生き方は、勤め人ではなく自営業者は自分軸で決めることができます。いつ休んでいつ働くのか、それを自ら決めてこその自由な時間、ということです。
学校こそ時間の使い方の洗脳機関
ではこうした時間の使い方の幻想はいつ刷り込まれるのでしょうか。実は学校がその役割を担っています。
学校では1日の時間割が1週間分決まっています。1日が「〇時間目」などと区切られ、その時間に区切られた中に、決められた教科を学ぶ時間が組み込まれています。
たとえば誰かが「今日は1日絵を描きたい!」と言ったとしても、決まった時間割をかえることはできません。なぜなら学期、そして1年を通じたカリキュラムが決まっているからです。
そして1日の中には決まった時間に休み時間があり、お昼休みの時間も毎日決まっています。いくらお腹が空いても、その時間より前にご飯を食べようとすれば叱られます。
このように学校ではガチガチに時間について縛りを作って、「時間の使い方」について刷り込ませます。
毎日決まった時間割があるのは、決まった労働をするための準備であり、休み時間も決められているのは労働と余暇の感覚を刷り込ませるためです。
全ては社会人になった時に、従順な労働者としての時間を使えるように、子ども時代から学ばせているのです。こうして誰も疑問を持つことなく、1日中働いて過ごせる人間が次々と生まれていきます。
※新世界では”学校”はどうなるのか? – 5次元世界における必須科目とは
時間の幻想と真実 – 私たちの中に時間が存在する
今回は、労働と言う幻想を絡めつつ、「時間の使い方」に関する幻想について書いてきました。
日本人の勤勉さという特徴は、学校教育の中で決まった枠の中に縛り付けて時間を過ごす、ということに置き換えられ、朝から晩まで労働に従事させる、という奴隷支配に利用されてきました。
その中で「時間の使い方」についても、本当の自由ではなく、”条件付きの”自由時間=余暇を与えて、それが楽しみだと信じ込ませてきました。
時間についても、お金と同様に幻想によって支配されてきたのです。その幻想から目覚めることが、新世界に向かう上で重要と考えます。
まず時間は、1秒・1分と単位が決められていますが、そうした単位は人間が考えたもので幻想に過ぎません。そして刻々と時間を刻み、24時間を1日として一定の時間が流れていると思っています。
しかし時間の感覚は、楽しいことをしていればあっという間、退屈な時間は永遠に続くかのように感じられます。これが実は時間が一定に流れてはいない証拠の1つなのです。
お金そのものが幻想であったように、時間そのものも幻想なのです。つまり一定に過去から現在、未来へと流れていると思っている時間も、実はあると信じ込まされたものです。
時間は私たち自身の中にある、と言うのが真実です。本体は私たちが何かを考え、行動することであり、それに伴って3次元世界ではその動きが時間として”認識される”だけなのです。
5次元以上の世界では時間が自分の中にあることが感じられますが、4次元以下の世界ではそのように認識すること自体は非常に難しいと言えるでしょう。
※次元による時間の捉え方の違い – ”時間に縛られる”幻想・なぜ5次元では”今、ここ”に注目するのか?
ただ先ほど述べたように、時間が主観的な感覚では速さが異なっているのが、本当の時間なのです。
私たちの中から時間が生まれるとすれば、私たち自身の心・魂の状態によって時間の流れ方も変わります。穏やかな時間を過ごすには、私たち自身が穏やかな心になればそれで良いのです。
外に時間が流れていると時間を追いかけたくなりますが、追いかけるほどに時間はなくなっていきます。この法則性はお金と全く同じであると思っています。
最後は少し難しい話となりましたが、時間に関する目覚めについて、以下の2つの段階がありそうです。
- 時間の使い方に関する幻想(労働などにより支配されたもの)を知り、時間の使い方は自分次第であると気付く。
- 時間は自分の外に流れているのではなく、自分の中に時間があると知る。
私たちにとって大切な時間について真実を知ることは非常に重要です。新世界ではお金とともに時間にも縛られない世界がやってきますので、今のうちから時間に関して自らを解き放っていきたいですね。
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