新型コロナウイルスをめぐって、実に不思議なことがずっと続いています。
コロナは危険だと言われながら、たかがマスク1枚が万能と思われ、ワクチンが推進されながら、1000人を超える人がワクチン接種後に亡くなっています。
SNSに目を向ければ、”コロナ脳”や”反ワクチン”と不思議なラベルが生まれて、相反する情報や言説があふれ返っています。
このカオス状態に対し、皆さんはどうやって心の安定を保っているのでしょうか?
今回は、二回にわたりコロナ騒動の中で、私たちを取り巻く心の在りようを整理し、穏やかに生きるために必要な考え方について、考察してみたいと思っています。
さて、今行われているコロナ対策は、”普通に”考えれば矛盾だらけのおかしなものなのに、世間のニュースの多くは、マスクやワクチンの効果について、”科学的な”根拠を元に語っています。
私たちは今、無意識のうちに、自分で頭を使わずに”科学的な”根拠に生活を支配されているのではないでしょうか。
今回は、コロナによって科学が日常に侵食した結果、何が起き、そしてどんな影響が出ているのか、考察してみようと思います。
ここでは「科学的な思考」が私たちの日常の考え方にまで影響を及ぼし、科学”信奉”になってしまった人の特徴を述べます。そして私たちが注意しなければならないこともまとめました。
コロナ騒動がもたらした科学的思考の侵食
コロナによって私たちの生活は一変しました。それはマスクやディスタンスと言った目に見える変化だけではありません。
そうしたコロナ対策を決める上で、コロナやワクチンに関する科学的知見が重要になります。そうした研究知見が、私たちの生活をダイレクトに左右するようになりました。
もちろんこれまでも科学的なデータが私たちの生活を支えてきた訳ですが、ここまで直接に影響を与えたこともなかったでしょう。
しかしコロナやワクチンについては分からないことも多く、様々な仮説や噂がネットで飛び交うような状況にもなっています。
こうした科学的知見や研究成果に関する議論が、私たちの日常生活や生き方に影響するようになったことで、科学的な物の見方が力を持ちすぎているように感じます。
「ファクトチェック」などの言葉が、正義として語られているようですが、何か窮屈な感じを受ける人もいたのではないでしょうか?
そしてSNSを見ると、個人の考え方にも、「論文を出せ」と言って叩き始める人をよく見かけます。
今、科学が日常生活に侵入し過ぎています。ここではまず科学のお作法は何かを説明し、科学的な思考を日常に持ち込み過ぎた人の、考え方の問題点を述べておきます。
科学のお作法とその限界
そもそも科学とは何でしょうか。
科学とは、Weblio辞書によれば、「一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識。」とあります。
特に今回はコロナに関することですので、自然科学をイメージするのが良いでしょう。自然科学では、仮説を立てて、それが実際に正しいのかデータ集めて検証するものです。
現実に起きることをそのまま研究できればいいのですが、現実はあまりに複雑な要因が絡み合っています。そのため状況を統制して、目的の現象がわかりやすく生じる舞台設定をするのが、研究の作法です。
できるだけシンプルな舞台設定をしてデータを収集し、そのデータをもって、現実世界でも近いことが起きていることが示唆されるのです。
1つの研究で言えることはごく限られたことで、1つずつ状況を複雑にするなどすれば、現実に近づいていきます。
また何度も同じ結果が得られれば、より確かな結果として定着していくのです。
以上から、研究では次のようなお作法・限界があると言えるでしょう。
- 現実世界そのものではなく、分かりやすくなるように、状況を統制した土俵で議論するものだと言うこと。
- 真に現実世界で起きていることを理解するためには、いくつもの研究を積み重ねて慎重に議論する必要があると言うこと
科学的思考を生き方にまで広げてしまう科学”信奉者”の考え方
ここまで科学のお作法とその限界を紹介しました。科学的な思考は、科学のフィールドで適切に用いれば良いのですが、日常生活や、生き方にまで持ち込む人たちが存在します。
それはこのコロナの問題がそうさせた側面もあり、人の生き方と科学的な思考がリンクしやすい状況ができてしまいました。
コロナと私たちの生活が密接になり、科学的な思考を、私たちの生活や人生にまで持ち込む人が現れてきました。と言うよりも、潜在的に存在していたのですが、表面化してきたと言えるでしょう。
しかし本来、どう生きるのか、という問題と、科学的な思考は相いれないもののはずです。では日常に科学的な思考を持ち込むと、どんな問題があるのでしょうか?
何でも証拠を求めてしまう
科学的な考え方では、常にデータという証拠を求めます。そのため、どんな発言に対しても証拠を求める姿勢が正義だと思っている人がいます。
しかしこれまで述べたように、科学の研究データが言えることはほんのわずかなことです。研究成果が、即現実に起きていることの説明に使えるとは限りません。
コロナの問題はわからないことだらけなのに、根拠が明確でないと、すぐに「デマだ」と言います。仮説を述べることさえ証拠がないとデマなのでしょうか。
そして現実に起きている森羅万象について、現代科学では明らかにできていないことだらけです。全てに科学的根拠がある、と考えるのは思い上がりです。
真に科学的な姿勢を持つ人なら、データがないからまだわからない、と言えるでしょう。科学的根拠ばかり求める人は、科学を武器に万能感を持っているように見えます。
コロナに限らず、私たちが生きていて遭遇する様々な問題について、科学の限界を理解しながら、あらゆる可能性を自由に議論できる雰囲気を大切にしたいものです。
正しいか正しくないか、だけで人を判断する
科学的な根拠ばかり求める人は、常に科学的に正しいか、正しくないかが判断の軸です。それは科学がデータが仮説に合うか、合わないか、という思考法をするからです。
もちろん研究の土俵では正しいかどうかの考え方が求められますが、人に対しても「この人の言っていることが正しいか、正しくないか」で、人を信用するのは問題です。
そもそも100%正しいことを言える人なんていません。遅かれ早かれ、「この人の言っていることは嘘だ」と、信用できなくなるでしょう。
私自身も、正しい発言をする人を信用しようと思っていたこともありましたが、その結果、誰も信用できなくなりました。
そこで、多少間違ったことを言っても、物事を良い方向に進むように考えている人を信じようと思うように考え方を変えました。
人の生き方や選択は、いつも科学的とは限りません。経験則や直感のようなものの方が、結果的に良い判断になることが多くあります。
正しいかどうかの軸だけで考えると、視野を狭め、自分自身を苦しめることになってしまうでしょう。
科学以外の世界への視野が狭まる
科学の考え方は客観的で、白黒はっきりしているところが魅力ですが、それゆえはっきりしないことが許せなくなってしまうのです。
そんな科学への信頼と万能感から、科学的思考が絶対正しいと言う信念が生まれてしまいます。しかし「科学的な作法に則って出された論文」だからと言って、それが本当に正しいのでしょうか。
特に、コロナ騒ぎが様々な利権や思惑の中で動く政治的な部分がある以上、科学的な中立性が本当に担保されているとも言い難い状況だと思います。
こうした科学の外側にある政治的な問題を語ると、科学信奉者は途端に「陰謀論だ」「デマだ」という不思議な返答をよこしてきます。
このように科学的な思考に囚われ過ぎることは、科学の世界の周りにある広大な現実世界において、本当に物事を動かしている事象を見えなくさせてしまいます。
科学”信奉”について私たちが注意しなければならないこと
ここまで科学的な思考を日常や生き方に広げる、科学信奉者とでもいうべき人の特徴を述べてきました。多くの人が、ここまで極端な考え方を持ってはいないかもしれません。
しかし、科学的な思考法が無意識に私たちの頭の中に侵食してきていることには、十分注意しなければなりません。
科学的な思考が判断の軸になっていないか
科学的な思考は、客観的で優れたものだ、という認識を持ちがちです。しかし最初に述べたように、科学のお作法は、科学の世界でこそ生きるもので、私たちの生きる世界全般に有用とは限りません。
科学のフィールドで議論することには問題がありません。しかし本来科学的な思考を用いるのにそぐわないような、人の生き方までも決めようとすることが問題なのです。
コロナの問題は、確かに科学的な根拠と不可分なものですが、私たちの人生の選択は、私たち自身で決めるものです。私たちの人生は、仮説を立ててデータをとるような決め方をしてはいないはずです。
科学的思考の「正しいか、正しくないか」ではなく、「何がしたいか、どうなりたいか」という軸こそ、生きていく上では重要になるでしょう。
うっかり正しいかどうか、の軸で動いていないか、見直してみると良いでしょう。
分からないことに対して誠実な姿勢でいること
科学はデータをもって、明らかになっていないことを実証するものです。その積み重ねが、世界の様々な事象を明らかにしてきました。
しかしそれでも、分からないことだらけなのが、この世の中です。新たに登場した「新型コロナウイルス」が何であるのか、いまだによく分かっていません。
分からないことは、分からないと素直に言える姿勢が大切だと思います。そして分からないから何とも言えない、という保留の姿勢も重要です。
そして今の科学で明らかになっている世界がすべてだと思うことも、とんだ思い上がりです。
確かに科学の研究の世界では、今明らかになっていることの範疇で議論をします。しかし私たちが生きているのは、まだ分からないことだらけの事象で溢れた世界です。
何で起きているのか分からないことにも、それを認めて生きていく姿勢は持ちたいものです。
”普通に”考える頭を持つこと
科学的な思考は、しっかりと手順を追い、客観的な物の見方ができる点では優れているかもしれません。
しかし私たちの日常、そして政治の世界など、科学の世界以外で、科学の思考法がノーマルだと考えるのは間違いだと思います。
日常場面で、科学的思考にとらわれ過ぎてはいけないことは、既に先ほど述べました。そして政治の世界も、本来は科学的根拠に則って動いているはずなのですが、そうではありません。
人間関係、組織同士のパワーバランスによって動いています。それを巧妙に科学的・論理的な思考で動いているかのように見せているだけです。
コロナ騒ぎもまさにそんな支配構造が見えています。科学的根拠自体も、政府が見せたいものだけ強調して提示し、報道でその印象を操作しています。
ここでは科学的な思考はほぼ無意味です。ごくごく”普通に”考えて、今やっていることが良いことなのか、おかしなことなのか、冷静に考えられる頭を持つべきでしょう。
科学的な正しさではなく、今行われていることがどういうことで、行われている理由は何なのか、それをただ素直に考えれば、きっとコロナ騒ぎがおかしなことに気づくはずなのです。
それがおかしいと思えないのは、何も考えずに騙されているか、科学的な正しいかどうかの世界でしか見られていないか、のどちらかだと思います。
まとめ
コロナ騒動の中で何が起きているのか、今回は科学的な思考が侵食してきた現状を述べました。
もちろん科学的な思考全般が間違っているという訳ではありません。適切なフィールドで議論するツールとしては有用ですが、私たちの日常やコロナ対策全般に用いるものではないと思います。
今回述べたような科学”信奉”の人は、中途半端に頭の良い人たちが陥りがちだと思います。学校教育で科学的思考を叩き込まれた人たちが、この思考法にこだわってしまうのです。
学歴がなくても、感性や経験で今のコロナ騒動がおかしなことに気付いている人はたくさんいます。そして真に賢い人は、知性と感覚のハイブリッドで今の現状を見ているはずです。
私たちも、科学的な思考への侵食に対して、自分の心を整える必要があると感じています。
そこで後編では、もう少し心の在り方に焦点を当てたいと思います。科学信奉者になってしまう人の背後にある心理を説明し、どんな心でコロナ騒動を生きていくのが良いのか考えたいと思います。
※新型コロナウイルスがもたらした心の世界の分断について書いた記事
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